だだっ広くて何もないところ(今日のサドゥ7)

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桜を写真を整理しながら、あいも変わらずルーツレゲエを聴き、そしてインドのことを考える。頭の中がめちゃくちゃである。最近は、多摩川がガンガーに見えたりする。サドゥとラスタマンの違いさえ分からなくなってきた。

今日の音楽はこれか。AUGUSTUS PABLO JAVA LIVE 1986(注意!音が出ます)

ときどきジャマイカにも行きたくなるが、これは空想だけ。本物のラスタマンというのはサドゥと同じでジャマイカの中でも完全に異端者あつかいらしい。しかも山の中なんかにひっそりと暮らしているようだから、ラスタマンと出会うまでに強盗に襲われてしまう。ジャマイカの治安はかなり悪いらしいから…。

今回の写真はガンガー最下流の聖地ガンガーサガール。だだっ広くて何もなくて、いいところだった。サドゥ撮影はこういうところが多かったから、最近はだだっ広いところがすっかりお気に入りになってしまった。ババジもうれしそうだ。後ろからは、怪しいインド人がなんかビデオ撮影しているが、これはサドゥではなく、怪しいサドゥを撮影している怪しい日本人を撮っているのだろう。

サドゥ本を出版して一年以上たって、どうしてサドゥを撮りはじめたんだろう、とふと思ったりもする。理由はいろいろあると思うが、そういえば、サドゥを撮りはじめたとき、「サドゥを撮らないとインドは終われない」、となんとなく考えていたような気がする。実際、インドに二年以上行かずになんとか我慢できるのはサドゥをある程度、撮ったから、という満足感があるからだが、じゃあインドは終わり、という気分にはとてもなれない。

サドゥを撮ってよかったことは、自分が好きなものがある程度はっきりしたことだろう。だだっ広くて何もないところ、だけではないが(別に森の中でもいいし…)、なんかそういうところで、川の流れや不思議な空や夕暮れなどを眺めていたい。隣にサドゥやラスタマンがいればなおいいし、ヒマラヤの峠の茶屋でチャイや地酒、というのもまた天国。まあ、東京の旅ではそこまでの贅沢は言わないが、多摩川を登りつめていけばそのうち天竺が見えてくることだろう。

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太陽の下で(今日のサドゥ6)

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輝く太陽の下でこうして立ち尽くさないと太陽のことは理解できない。サドゥのやっていることというのは、至極当然のことばかり。エコだエコだと空騒ぎしているどこかの現代人たちとは対極の世界だ。どちらがおかしいかは言うまでもないだろう。

写真はガンガー河口の聖地ガンガーサガール。

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道中一服(今日のサドゥ5)

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東京写真の整理を今も続けている。なかなか終わらない。イヤホンで音楽を聴きながらの作業。日本の写真なので、基本的には邦楽を聞く。しかし、ときどき非常に眠くなって困る。

さて、眠気覚ましには何がいいかなあ、とユーチューブをめぐってたどり着いたのがボブ・マーリー。昔、よく聞いていた。Natural Mysticが最高だ。多摩川の夕暮れはまさにこの世界。そしてときどきは、ウェイラーズ時代の相棒、ピータートッシュを聞きにいく。マリファナを吸いながら歌う姿が圧巻。彼らの音楽からは自然のエネルギーを感じる。

今日の写真はヒマラヤ、ガンガー源流の少し上。一緒の旅したアマルナートババがチャラス(大麻樹脂)で一服していたら、見知らぬサドゥがやってきた。こういうとき、たいがいのサドゥは、「お疲れさん、一服どう?」といった感じで、チャラスをまわす。日本風に言えば、「まあ一杯どうだ?」といった話だ。

酒は自然のスピリット。マリファナも同様。聖なる草にして、シヴァ神からの贈り物。もちろん、これはインドやジャマイカでの話だが…。ちなみにマリファナの別名ガンジャは、ガン(草)ジャー(神)という意味で、これはジャマイカの言葉。

(インドでも大麻は禁止されているが、これはインドが経済自由化を模索していた89年当時の先進諸国からの圧力によるものらしい。だから逮捕されるのも外国人がほとんど。また一部の州では公に認められているし、サドゥ世界においても、ビジネスにしない限りはほぼ黙認、ということらしい)

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空の向こう(今日のサドゥ4)

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旅についていろいろ書こうかと思ったが、考えがまとまらないのでやめておく。最近はこんなことの繰り返しだ。頭の中にいろんな考えが浮かんでくるのに、掴み取ろうとすると逃げていく。まるで空気のようだ。

そういえば、昔、般若心経を覚えたことがあった。

「色即是空、空即是色」が有名だが、その後、ないないないない、なんにもない、とさんざん否定しまくり、最後に、「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経」で終わる。

なんか訳分からん、と思って適当に唱えていると急に魅力的に思えてくる。まるでサドゥのように不思議なお経だ。

さて今日の写真は、ガンガー源流付近を歩くスワヤンブナートババ(サンブナートババ)。サドゥ本にも一点登場した。

サドゥ本にも書いたが、「サドゥにとって大切なことは何か?」といった質問をしたら、「何もしないこと」と答えた。それでは、何もしないはずのサドゥがなぜヒマラヤを歩いているかというと、これは僕は無理やり源流旅行へと誘ったからである。途中、何度も「しんどいので帰る」と言ったが、拝み倒して連れて行った。

源流からの帰り道では、「まあ、よかったよ」と言ってくれたから、こちらもよかった。

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それから「般若心経」の全文はこちらから。

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無の境地(今日のサドゥ3)

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少しご無沙汰してしまった。

ブログを書こうと何度か思ったが、頭がぼ~っとして言葉が出てこない。たぶん、写真を撮り続けているためだと思う。

寒いので、写真を撮りに行こうというときはちょっと憂鬱になる。さてどこに行こうか、といろいろ雑念が湧いては消えを繰り返すが、とりあえずその場所に着いて、カメラを取り出し、数枚、適当に撮っているとだんだん何も考えなくなる。考えるのは、道の分岐点で、右か左か、ぐらいのもの。日没ぐらいまでにどこかの最果てにたどり着けばいい。たどり着いてしまえばこっちのもの。…なんてことしか考えていない。そしてうまく夕暮れに突入できれば無の境地。

というわけで、帰宅後も写真の整理などもあるから、頭のほうは、あいも変わらずぼ~っとしたままで動かない。

写真は不思議だ、とあらためて思う。たぶん、年をとったせいだろう。余計なことに頭を悩ませることが少なくなった。それともうひとつは、やっぱりサドゥを撮ったせいだ。何も考えていない聖者のとなりを旅していると、こちらまで頭を使わなくなる。

というわけで、今日のサドゥシリーズその3。

とくに書くようなことはあまりなくて、彼はマッチの炎を睨みつけ、これから大麻を一気に吸ってしまおうというところ。定番写真だが、サドゥの人生といえばまず、これをおいて他にない。大麻道を極める変人サドゥは、そこらへんのヒッピーたちが束になっても太刀打ちできない。サドゥは一気に無の境地に分け入り、チラム(パイプ)の大麻を吸い尽くしてしかも超然としている。まあ、聖者なんだからこれぐらいは当たり前というべきか。

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インドの野宿者(今日のサドゥ2)

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年末年始といってもあいかわらずで、時間をやりくりしながらあちこち歩いて写真を撮っていた。普段と同じように歩いていても、やはりいろいろと心に響くものがあり、不思議な時間を過ごしたような気がする。今日はそんなことを書こうと思ったが、なぜか言葉が出てこない。

ということで別の話題。

派遣やホームレスの問題が世間でいろいろと騒がれている。それについて、どうのこうのは別にないが、家も仕事もない、という話になると、やはりサドゥを思い浮かべてしまう。庵(クティア)を持つサドゥもいるが、これはあくまで仮の住まい。サドゥは5000年来の野宿者で、そんな彼らがヒンドゥー教世界で今も威張って歩いているのが、インドらしくておもしろい。

上の写真は、ヒマラヤの聖地ケダルナートのサドゥ。ここは標高が3500メートル。夏とはいっても、夜は氷点下近くまで気温が下がる。放浪サドゥたちは金もないから、そこらへんの廃墟や、あるいは寺の境内(野外です)などで暮らしている。まさにホームレス。

しかし、彼らが嫌々そんな暮らしを続けているのかといえば、そんなことはあるはずもなく、満足そうに大麻を吸引している彼らの顔つきが示すように、その多くはまあまあ幸せであったりする(そんなに彼らのことを知っているわけではないが…)。

いまさら日本とインドを比べるのも野暮な話だが、ただ、気持ちの持ちようで、人生いろいろだな、と日本のニュースを見ながら少し思った。

サドゥのことはいつも心の中にある。サドゥについて、いろいろ考えている、ということではなく、ただ写真を見たりして楽しんでいるだけだが、それにしても、サドゥを知る機会があって本当によかった。今撮っている東京散歩写真も、自分の中ではサドゥ続編のつもりである。今度は自分がサドゥの気分で、世間と自然を眺めようという話だ。

今年もまた、歩き続ける年にしたい。

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牛サドゥ(今日のサドゥその1)

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前回の牛写真に続いて、今回は牛サドゥ写真。

別に顔が牛っぽいということではない。彼の名前はナンディバルティ。そのナンディとは、シヴァの従者である雄牛のこと(背後のポスターに描かれている)。

ということで、なんだかこじつけっぽいが、牛サドゥ。

ナンディバルティはサドゥ本に4回登場している。上の写真は最果ての聖地ガンガーサガールではじめて出会ったときのもの。今、気づいたが、このときはふんどし着用だ(サドゥ本にも似たような写真があるが、あれは最終日の夕方の写真)。

ナンディバルティとの出会いはガンガーサガール初日。

聖地のある島に宿がないので、対岸の街からバスとフェリーで通おうと思ったが、思いのほか時間がかかる。早朝の聖地を撮りたいが、フェリーの始発も遅いしとても無理だ。ということで、現地で仮の宿を物色していたとき、遠くから、灰まみれのあやしいサドゥ、つまりナンディバルティがこちらに手を振っていた。

聖地に入ってすぐに本格的サドゥに呼ばれるとはなかなか縁起がよい。挨拶もそこそこにして、すぐに写真を撮った。

そして写真を撮りながら、そうか、サドゥ小屋で泊まるのもいいかなあ、その手があった、とひそかに考える。写真を撮り終わったあと、

「ババジはどこで寝てるの?」と聞くと、
「カーテンの裏だ」と答える。
それで覗いてみると、二人ぐらいは十分寝れそうなスペースがある。

あっ、ここに決めた、というわけで、一分後には交渉成立。ほんのわずかだが躊躇する気持ちもあったが、隣にいた裸の老サドゥが、「ナンディバルティはいいサドゥだからな~んも問題ない」と太鼓判を押した。それで決定。

今から考えると、いいかげんだが、とはいえ、なんとなく直感はあった。

「このサドゥはいいサドゥ」

瞬時にひらめくそういう直感は、経験上、比較的間違いがない。サドゥ写真はそういうことの連続だった。

牛サドゥ、ナンディバルティは今頃どうしているだろう。今年もガンガーサガールへ行くなら、ヒマラヤ山麓の庵で旅支度でもしている頃か。

ところで、また今回からまた新しいカテゴリーを作った。

「今日のサドゥ」

サドゥ本出版から一年近くたったが、サドゥが自分の中で色あせてしまったということは全然ないし、今後もないだろう。サドゥ普及活動は、ささやかながら、今後も続けていきたいが、発表する媒体がなかなか見つからないので、当面はこのブログで、定期的に紹介していきたい、という思いがあり、新しいカテゴリーを作ってみた(うちはすでにカテゴリー乱立状態だが…)。

サドゥ本に登場したサドゥはほとんどがシヴァ派サドゥ、つまり本格的サドゥだが、サドゥ世界はシヴァ派だけが全てではない。自称サドゥもサドゥであることには変わりない。そういうサドゥも含めて、いろいろ紹介していければ、と思っています。


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