河原者サドゥ

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上の写真は、ガンガーを背にふてぶてしく寝転ぶサントスナートババ。彼は今もガンガー上流近くをぶらついているらしい。

多摩川のことを考えているうち、久しぶりにサドゥの写真が見たくなった。風景ばかり撮っていて、そのフラストレーションが溜まってきたともいえるし、また、3年半、川を追い続けて、ようやく自分が探していた川の姿が少しずつはっきりと見えてきた、というのもある。ただし、理想の川の風景には、やっぱり河原者サドゥがいてほしい。

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シャヒスナンによせて

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また雪が降ってきたから、明日も奥多摩かな、と一瞬考えてやっぱりやめた。外を見ると、雪はみぞれに変わってきているし、このあいだ撮って、もうあれで、今年の雪は終わりにしたい。

多摩川が一段落して、ちょっと目先を変えて違うものも撮ろうかな、とここ最近ずっと考えていたが、結局いいアイデアは浮かばずじまい。というか、やっぱり川がいいみたい。ここは素直に、自分の気持ちに従おうと昨日結論を出した。

今回の写真は、お馴染みクンブメーラのシャヒスナン。シャヒスナン、聖者の沐浴、ということだろうか。そして、ハリドワールのクンブメーラでは、二回目のシャヒスナンが一週間後に迫っている。裸のサドゥがまたガンガーで大暴れするのだ。三年前のクンブメーラでは3回シャヒンスナンを撮ったが、撮った後のカタルシスというのがどうしようもないほど強烈で、生涯忘れない、と思えるぐらい。あの感覚はいったいなんだろう。裸の人間が大挙して川へ向かっていく、という基本的にはただそれだけのことに、鳥肌が立つほど感動したりする。

(写真をクリックすると拡大表示します。写真の坊主頭は新人サドゥ。でも、ここまできたら、ベテランも新人も関係ない)

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半分終わった

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(写真はクリックすると拡大表示します)

7月に入った。今年も半分終わった。こういうとき、「もう半分過ぎてしまったよ。時間がたつのは早いなあ」なんて話をするのが常だが、個人的には、ようやく半年か、といった感じ。継続して写真を撮っていたり、旅をしていたりすると、時間がたつのは意外と遅い、という気がしている。

今年の一月一日のことはよく憶えている。午前中から撮り始めて夜まで。たくさん歩いてたくさん撮ったが、気分はかなり複雑だった。当時は夜の街なんかも含めていろいろ撮っていたが、いつもどこに行くかで悩んでいた。それから一ヶ月、突然、「街は全部やめた」と決めてしまってから、すっかり気が楽になった。最近はほとんど触れてこなかったが、今は多摩川だけやっている。場所と天候にもよるが、あそこはまあ天国。今日は蛇と出会ったり、目の前を蛙が飛んだりして驚かされたが、なぜかそういうことはほとんど苦にならない。

さて、今回は久しぶりにサドゥの写真。サドゥ本にも登場した二人の懐かしいババ。なんか、懐かしいものはみんなモノクロにしたくなる。写真はどちらもヒマラヤ、シヴァの聖地ケダルナート。ここでテントを張ってみたい。でも、ときどきはユキヒョウも現れるというからちょっと怖いが、それにしても、この年になって、いろいろな自然の風景を見てみたい、という願望がやたら湧き上がってきて困る。そのためには、テント暮らしの練習などもしたいが、とりあえず今は多摩川。冬までかな。

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久々にサドゥ

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東京で連日のように写真を撮っていると、このままインドを忘れてしまうのではないかと、ときどき不安になる。インドの街は日々遠ざかり、かといって、東京に対する違和感も消えない。こんなときぐらいは、久々にサドゥの写真を拝んで神頼み(何の…?)、といきたいところだが、肝心のサドゥは青白い光のなかで連日葉っぱ漬け。

それにしても、世界同時株安、なんかで世間はゆれているのに、サドゥだけは昨日も今日も明日も悠々自適の旅暮らし。インド経済が停滞すればまたサドゥ志願者が増えてサドゥ勢力が拡大するかもしれず、ただ単に遊び人が増えるだけ。まるで世間の流れとは逆回転に力が働いているようだ。

仕掛け自体は何千年も前に作られたものだが、それがインドでは普通に生きている。カーストとともに…。

今回の写真は2007年クンブメーラ(サドゥの大集会)。サドゥの行進前日に、このテントで一泊させてもらった。

テントの主(写真は別の人)はかなりの奇人で、サドゥたちの裸の大行進についてふと質問したら、何を勘違いしたのか、裏の部屋に連れて行かれ、「ワシは行進には参加しないが、仕方がないからワシのモノを撮らせてやる」と、このブログでは決してアップできないリンガ写真を撮らされた。いちおうご神体、ということなので削除はしていないが…。

なんて感じで、サドゥはやることなすこと、それに考えることが世間とは真逆、だからああやってのんびり暮らしていけるのだろうな、ということだが、これはインドならではの話。(今の)日本ではまず無理だろう。

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ハリオーム、ババジ!

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真っ赤な街灯の下で手をあげているのがサドゥ本にも登場したサラスヴァティギリ、そして隣が、その相棒というのか、よくは分からないが、ナルマダギリ。場所は「神の門」ハリドワール、という聖地。

サドゥを撮る前、インドを思い出すときによく現れるのが、赤い街灯の光であったが、今はその下にサドゥが座る。サドゥは、持病のように、自分のなかに住みつづける。なんでこんなにサドゥがいいのか、不思議だ。

ここ数日、近場で写真を撮っているが、テーマはやっぱり「サドゥの視点」であったりする。本当はそんな写真をアップしようかと思ったが、いやいやその前に、とりあえずサドゥの写真を、と思って今回の写真になった…が、紹介したい写真も話も、本当のところ、山ほどある。しかも、まだ撮り足りていない。というか、日々、サドゥの顔を見て、「ハリオーム、ババジ!」と話しかけたいが、日本にいてはそうもいかない。

インドインド、サドゥサドゥ、うちのブログは毎度、そんなのばっかりで、まったく困ったものだなあ、とは思うものの、これが旅の原点なので仕方がない。

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サドゥの手相

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(写真はクリックすると大きくなります)

変わった手相をしている。

写真を撮ったときはそんなことには全然気が回らなかったが…、こうやって写真として記録に残しておけば、あとでいろいろ眺めては、いろんな発見があって、まったく飽きない。

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無為自然

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「サドゥって普段、なにしてるんですか?」
「今は、…暑いのでヒマラヤですね」(行かない人もたくさんいる)
「……」
「……」
「ヒマラヤで修行ですかね?」
「いやあ~、どうなんでしょう。なにもしてないんじゃないですかね~」

先日もこんな会話をしたが、「なにもしていない」というのは、話題としてはなんとも微妙だ。それで慌てて、

「まあ、大麻吸ったり、チャイ飲んだり、飯を食ったりはしてますが…」

と、付け加えるが…、これまた微妙だ。

サドゥの説明をするのは大変だなあ、と思って、それで、というわけではないが、ぶらりと本屋に行くと、「老子」が目に飛び込んできた。道教の始祖「老子」だが、読んでいると、まるでサドゥが話しているかのようで心地よい。「老子」の説明をするのもまた大変なので遠慮しておくが、その思想は簡単に言えば、「無為自然」というのに尽きてしまう。

「自然の流れにまかせてなにもしないこと」

まさにサドゥだ。

今回の写真は、サドゥ本に何度も登場したナンディバルティババ。庵のある山の向こうの村から、数日歩いて、聖地ケダルナートに避暑にやってきた。

ケダルナートに到着してしまえば、あとはやっぱりなにもしない。鳥のように座っているだけで、僕の顔を見つけると、「チャイ、チャイ!」と言って、近づいてくる。それで二人してチャイ屋に行って、チャイを片手にヒマラヤを眺める。

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放浪者たちの夏休み

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日本の写真が二回続いたら、またしてもインドが強烈に懐かしくなってしまった。

ということで、いつものようにハリドワールの対岸へ。放浪者たちの楽園だ。そして放浪者といえばババジ(サドゥ)。

写真の男たち、ただの浮浪者のようでもあるが、少なくとも一番手前と、後ろからいたずらしている男は正真正銘のサドゥ。いたずらしているのはネパール人サドゥで手前はたぶんパンジャーブのサドゥだが、宗派は同じだ。耳に耳輪をしている。ナートサドゥである。

ナートサドゥは、今、一番気になっているサドゥ。彼らは酒も飲むし肉も食う。でもサドゥだ。しかもちょっと黒魔術師系…。

ハリドワールは肉食も飲酒も禁止されているが、ナートサドゥが裏手でゴソゴソ肉食飲酒をやっていたとしたらどうなんだろう。見て見ぬふりなんだろうな。どうせ対岸(聖地の対岸はインドでは「あの世」)だし…。

ところで表題「放浪者たちの夏休み」だが、放浪者、ことにババジたちは毎日が夏休み状態。でも、ハリドワールの夏休みは彼らにとっても格別なものらしい。

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夏はサドゥとともにヒマラヤへ

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(写真はクリックすると大きくなります)

毎日暑い。そして暑い夏がやってくると、考えることは、ただただヒマラヤ、そしてサドゥ…、暑くなくても思い出すわけだが。

写真はサドゥ本第二章に登場したサントスナートババ(左)とアマルナートババ。なんだか、すべてがいい旅だった。

ところで最近、「シヴァとディオニュソス」(講談社)という本をゆっくり読んでいる。本屋で表紙のあやしげなシヴァ絵を見て手に取り、なかをちらっと見ただけで衝動買い。シヴァの本なんて日本にほとんどないから当然買いだが、その内容というのは、「古代、シヴァ教が全世界を支配していた」といったもので、当然、タントラ、ヨーガの起源に触れ、サドゥもそのうち登場してくるだろう。まだ四分の一も読んでないのでとりあえず感想などは書かないが、彼の説が真実なら、やはりサドゥがすべてのはじまり、ということになるだろう。シヴァのモデルはサドゥかもしれないわけだから…。

サドゥを見ても、見なかったふりをするインド通がこの世には無数にいるが、ま、その手の話はきりがないのでまたいずれ…。とりあえず続きを読もう。

(追記)
アマゾンに掲載されていた「シヴァとディオニュソス」の内容紹介を書いておく。

「人類最古の宗教シヴァ教の豊穣なる哲学とは
都市型の社会=自然を搾取する文明はなぜアニミズムから発したシヴァ=ディオニュソス教を弾圧するのか。シヴァの教えが示唆するオルタナティブな原理とは何か。」

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サドゥQ&A作りました

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前回記事の予告通り、「サドゥQ&A」のページを作った。多くなったので2ページに分けた。ぜひご覧ください。


ところで、一番多く受ける質問を書き忘れた。それは、

「なぜサドゥを撮っているのですか?」

というもの。いつも聞かれて答えに困る。あと、サドゥを撮る以前だったら、

「なぜインドなんですか?」

というのも多かった。これまた困る。昔、ある出版社でそう質問されたときは、苦し紛れに、

「なんとなく、楽なんですね~」

と意味不明の答えを返してひどく後悔した。楽だからインドというのも、答えとしてはひどすぎる。インド長期沈没組でも、もう少しましなことを言うはずだ。実際はいろいろあるんだけど、うまくまとめるのはなかなか難しい。

今日の写真だが、ガンジス川源流への旅の途上でちょっと会ったサドゥ。このとき一緒に旅していたサドゥと挨拶代わりにボンをしているところ。

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