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「不食」について

ホームページのほうはアクセスカウンターだけだが、こちらのブログにはアクセス解析がついている。有料版ブログの付属品だからたいしたことは分からないが、リンク元や検索ワードなどの情報もあって重宝している。ホームページのほうにもアクセス解析が是非欲しいものだ。

それはともかく、最近、このブログに、ある言葉を検索してやってくる人が大変多い。ある言葉とは、「不食」である。人数は1日平均10人ほど、それでも二週間ずっとそんな状態が続いているので、延べ150人は来ている計算になる。以前、「不食と粗食」というブログを書いたのが、どこかで検索されているらしい。それでいろいろ調べてみると、グーグル検索で三番目くらいにこのブログがあった。

「不食と粗食」というブログはある本を見たことから思いついて書いたものだ。その本の名前は、正式には「人は食べなくても生きられる」。山田鷹夫さんという人が書いたものだ。ただし、「不食と粗食」でも書いたが、僕自身はまだこの本を読んでいない。そのときは、話はサドゥー(インドの修行者)などにいってしまってそのままになってしまった。それでは何か失礼な気がするので、今度読んで見るつもりだが、その前に、最近ちょっと考えていたことを、先入観なしに書いてみようと思う。

「不食と粗食」の記事に、一つコメントをいただいた。そのコメントには、山田鷹夫さんの言葉として、こんな言葉を紹介していただいた。

 「たべたいのは、空腹というよりは、嗜好や愛(つきあいなど)のため」」(「人は食べなくても生きられる」より)

この文章がどんな文脈で使われているのか分からないが、それはとても印象に残った。確かにその通りだと思う。例えば過食症なども、孤独が原因で発症するのではないだろうか?でも、それは逆に考えれば、過食症の人は食べ続けることで、かろうじて孤独を克服しているのであって、もし食べるのを禁じれば、本当におかしくなってしまうだろう。

食べるという行為は、ある意味で、世界との共感や連帯感、そして、それによってうける充実感が大きな位置を占めているのかもしれない。もちろん、みんなで食卓を囲んで食べるのは最高の贅沢だ。僕は、何年も山小屋で働いていたから、そのあたりのことがよく理解できる。家族でもないもの同士が、同じ釜の飯を食うなかで、擬似家族のようになっていく。夏の短期アルバイトや、ときには大の大人である社員までが、まるで子供のようにわがままに振舞う。多分、山小屋という閉鎖的環境は、ある意味で幼児期の経験に近いものなのかもしれない。

食べるという行為のもう一つの「愛」は、やはり大地、自然などとの共感だ。ジャンクフードばかり食べているとおかしくなるという。ジャンクフードには、大地との共感という、基本的な要素が欠けている。

ところで、今日もホームページのほうの書いたことだが、インドには菜食主義が大変多い。菜食主義者たちは、ときにさも自分達は偉いようなことを言うことがある。世の中は因果応報によって成り立っており、あなたが何かを殺して食べるというその行為はいずれあなたに返ってくる、というわけだ。なるほど、と最初はおとなしく聞いていたが、だんだん腹が立ってきた。つまり自分だけいい子でいたいというわけだ。こういうことをとくとくと語るインド人はたいがい中流階級で、おそらく使用人なんかにはおそろしくケチであるに違いない。

あらためて書くと、食べるという行為は、ある意味とても重要なコミニケーションだといえるだろう。例えば、雌の蜘蛛が交尾し終えた雄の蜘蛛をバリバリと食べてしまうようなものだと思う。食べられる雄の蜘蛛は喜んで食べられるのかは疑問だが、その栄養はまたその子供へと伝えられていくことだろう。

もしかすると、人間は共食いによって人間へと成長したのではないだろうか?共食いによる悲しみや愛情が脳を刺激し、人間へと成長する原動力になったとは考えられないだろうか。いわゆる人食いは、その昔は普通だったようで、多分、日本の首切りの風習もそこから出ているのかもしれない。菜食主義者の多いインドでも、じつは山の中にはまだ首狩り族がいるようにも聞いている。狩られそうになったという人に会ったこともあるし、数年前まで首狩りの習慣があったという村の存在も聞いている。

首狩りというのは非常に残酷な行為と思われるが、じっさいには、その肉は大切に食べるようである。しかも、一部の部族はそのたびに祭りをして、これから食べる死者たちを祭りあげるらしい、とどこかで聞いたことがある。アイヌが行うイオマンテという祭りも、やはり神である熊の首を切り落とすことを主体とした祭り(この祭りで殺されるのは小熊である。一説によると、小熊は殺されることを喜ぶのだという)だが、そのようなものは世界でもたくさんあるに違いない(祭りの起源もそこにあるのかな)。食べること、とくに同族での共食い(つまり人食い)は、ある意味で人間が人間であるための原点だったのではないか?

「不食」について、と書いておきながら、完全に食べる話になったと思われるかもしれない。でも、食べることとを考えてみなければ「不食」については理解できない。と、そう思ったから、長々と食べることについて書いてみた。というのは、もし不食であろうとするなら、食べるという行為に変わる、世界とのコミニケーションを考えなければならない。そして、それはそんなに簡単に見つけられるものではないのだと思う。でも、じっさいにはそんな人間の原点を飛び越え、「不食」、あるいはそれに近い存在でいる人もないわけではない。

「人は食べなくても生きられる」の著者、山田鷹夫さんもその一人なのかもしれない。また、インドでは、多くののサドゥー(修行者)がそれに近い生活を送っているようでもある。人間にとってもっとも大切な食べるという行為を捨てた人間は、一体何に自分の命を托すのだろう?ここから先は僕の知らない世界であり、あまり想像で書くわけにもいかないが、例えばサドゥーなら、ヨーガがそれにあたるのだろう。

ヨーガというと、いろいろな変なポーズをやるあの健康法だろう、と思っている人が多い。でも、あれはいわゆるヨーガの一種類(ハタヨーガ)であって、すべてではない。ヨーガには、バクティーヨーガというのもあって、それはひたすら神の名前を唱え、思い浮かべるものだが、それもヨーガの一つだ。要は、自ら行いたい、と思うことを夢中になって行うこと、それによって世界と一体になれるなら、それがヨーガだといえるのではないか…(ちなみに、ヨーガには、「つなぐ」という意味があるそうです。つまり、世界とのコミニケーションという意味なのかな)。

食べるという行為にしろ、「不食」にしろ、人間はやはり人間なんだとあらためて考えてしまう。どういうきっかけでそうなったかはとりあえず不明だが、つねに(人間関係も含めて)世界との共感、そしてつながりを模索していく存在であり続けるのだろう。それを考えると、なんとなく切ない気もする…。

「不食」については、本を読み、また何か具体的な考えが浮かんだとき、また書いてみたいと思う。いや、それにしても長くなってしまって…。ここまで読まれた方、どうもお疲れ様でした。

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コメント

山田さんの本を読んで、不食を実践中!
でも人からの頂き物はすてるとばちがあたりそうなので、頂いてます。
飲み物以外の食事に自らお金を払う事はしないで
どこまで生きてゆけるのか試しているところです。
もうすぐ一ヶ月。

投稿: miyu | 2004.12.17 01:15

miyuさん、はじめまして。
不食実践中なんですか。すばらしい!
する人というのは即行動なんですね。
山田さんもそうですが、みなさんとても前向きなのがいいな。
これからも無理せず頑張ってくださいね。

投稿: 柴田 | 2004.12.17 10:30

迷い込んできました f(^_^) アハッ 2冊目の本がほぼ完了で 息抜きに さまよい歩いて ここまで
また ここにはこれないかもしれませんが
       By露天の鷹

投稿: 露天の鷹 | 2004.12.20 13:59

露天の鷹さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
ところで、「二冊目の本」て何ですか?
気になります。

投稿: 柴田 | 2004.12.20 15:21

ちょっと気になったのですが、
コメントいただいた「露天の鷹」さんは、もしかして、
あの「露天の鷹」さんですか?
今、本を見て確認したのですが…。

投稿: 柴田 | 2004.12.20 19:01

インドに菜食主義者が多いのは、単に全員が肉食になると世界が崩壊する程の穀物を消費するからです。これは中国も殆どが野菜食中心なのと似ております。牛や豚、羊を育てるのに費やされる穀物の量で、どれほど多くの人間が養えるか?と考えると、実に牛肉1キロに10〜30kgの穀物が消費されている計算になるそうです。牛に餌を食べさせて、一人が腹一杯になるか、牛の餌をみんなで食べて10人が腹一杯になるか、どちらがいいですか?というのを実践しているのがインドです。彼等は歴史と宗教で上手く牛を神格化し食べるのを禁じ、また豚を不浄なものとして食べるのを禁止しました。これは上手いです。中国人も鶏肉が主にメインとなっていますので、上手い文化を形成した物だと思います。

また、アジア人全体の30億人が肉食だなんて、考えただけでもぞっとします。中国でマクドナルドが流行ったら、農産物の価格は高騰するどころでは済まないでしょう。

投稿: dkc | 2007.12.16 19:35

三年前の記事なので、この記事を書いたことすら忘れていました(笑)

食料の確保は集団にとっては最重要課題ですので、そこに政治や宗教が絡むのは当然のことでしょうね。狩猟民族であっても、食のタブーはありますが、そこには乱獲を防ぐ目的もあったでしょうし。

とはいえこの世は複雑なので、本当のことは僕にはよく分りません。インドには、肉や酒を飲み食いすることに執念を燃やしつづける聖者集団もいます。

中国もそうなんでしょうけど、あれほどの大国ですから、僕らの想像もつかないような、さまざまな思惑が絡み合っているのでしょうね。

投稿: 柴田 | 2007.12.17 01:43

不食の道を行くはある意味孤独な事。友人の少ないおいらは近い事出来てるけど、しかし食い物は限りなある物それだけは肝に銘じるべきだ!ところでおいらは甲田光雄さんの本を進めます。

投稿: ワンダーワダ | 2010.04.03 22:35

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