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不食と粗食

本屋をのぞいていると、「不食」という本があった。ぱらっとめくっただけで読んでいないが、なかなかおもしろそうである。「不食」とは、要するに、食べずに生きる、ということだ。仙人のように、霞を食って生きることでもある。そういえば、インドには今もいっぱい仙人みたいな人(サドゥー)がいるが、彼らもあまり食事をしない(サドゥーの写真はこちらから)。

ネパールのアンナプルナのいう山には毎年多くのサドゥーが訪れるが、あの地域は一般に仏教徒が多く、ヒンドゥーの行者サドゥーを尊敬していない。サドゥーはずた袋一つ背負って、標高が3千メートルを超えるような山岳地帯を旅するが、彼らは一体、どうやって食事を得ているのだろう。彼らが飢えかけていれば、村人もほうってはおかないと思うが、実際、サドゥーが困っている様子はない。時々、チャイ屋を訪れてチャイを要求するぐらいで、結局、サドゥーはほとんど何も食べずに旅をしているように思った。人間は水さえあれば、1ヶ月ぐらいは生き延びるというから、しかも修行を積んだサドゥーとなれば、数週間の絶食など、物の数ではないのかもしれない。

しかし、不食も長く続くと、どうやって栄養を取るのかと不安になるが、しかし実際は、むしろ食べ過ぎで病気になるパターンのほうがずっと多いかもしれない。僕は長く料理の仕事をしていたので、当然食に興味があるが、その為に逆に体を壊したこともあり、食は難しいなとつくづく思う。

そういえば、ビタミンEの取りすぎが病気の要因になるという記事があった。健康にいくら気をつかっていても、実際、何がいいのか悪いのかははっきりとは分らない。まあ、バランスのいい食事が一番だということになるのだろうか。

しかし、もっと話をすすめて、究極の健康法はといえば、それが「不食」なのかもしれない。何も食べなければ、ほとんどの病気の要因がなくなるわけだ。もちろん、栄養失調で死ぬ可能性は十分あるから不食は急には難しいが、少なくとも、何かの栄養を取らなくては、と焦るより、なるべく栄養を取らない方向にいくほうが、案外うまい健康法なのかもしれない。

禅寺のお坊さんなんかも、入門して、粗食ばかり食べると最初は痩せて元気がなくなるが、いつからか、急に健康的になって、逆にふくふくとしてくるのだと、どこかで聞いた。そういえば、大昔、永平寺という有名な禅寺に行ったことがあるが、そこにいたお坊さんが、みんなすごくきれいな肌をしていることに、子供心に驚いたのを思い出す。

ところで、こういった不食や粗食の考え方は、やはりインドからやってきたようである。食べなければ病気はしない、という不思議な考えは、ある意味、非常に消極的な生き方に結びつくかもしれない。因果応報といえばその通りだが、例えば人間関係なんかも、それを結ばなければ、苦しみは生まれない、と大昔のインド「聖」人は考えた。極端だが、その通りかもしれない。いや、傷ついてもいいから人間と付き合いたい、そして、病気になってもいいからいっぱい食べたい、と考える人もいるだろう。というより、多くの人はそれを望むに違いない。楽しみのない人生なんて要らない、と。

不食あるいは粗食の生活に楽しみがあるのかないのかは別にしても、傷ついてもいいから楽しみたいと考えるのもまた、とても人間らしい。どちらがいいか悪いかはこのさいどうでもいいことだ。不食や粗食だって人間らしいことには変わりはないわけで、まさか動物は、こんなことにいちいち頭を悩ますことはないだろう。

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満月の夜

さっき夜道を歩いていたら、真っ先に真ん丸い月が目に飛び込んできた。ちょっと赤みを帯び、いつもと違う凄みがある。調べてみると、今日はやはり満月であった。何日か前に見たときもだいぶ丸かったが、やはり満月というのは特別のものがある。

僕は結構月の満ち欠けを気にするほうである。月が好きというのもあるが、月の満ち欠けを見るたびに、「今頃インドでは○×の祭りが行われてるんだろうな」と、考えるのが楽しい。インドのほとんどの祭りは、今も月の満ち欠けでその日程を決めている。日曜日だから、というような理由で祭りを行うこともないし、雨天順延なんてことはありえない。

祭りは人間の都合で行われるものではない。神というのが分りにくければ、森羅万象の動きを忠実にたどり、その時々にあった祭りを執り行う。極端に言えば、毎日毎日、空を見上げ、太陽と月の動きに合わせて、分刻みに何かの行事が行われる。

インドの寺に行くと、なかに沢山の神殿があって、こっちは何々の神様、あっちは何々の神様、とあって、それぞればらばらな時間に鐘が打ち鳴らされ、小さな行事が始まったりする。インドの暦では、今日はシヴァ神の日、とか、今日はサラスヴァティー女神の日、などがあるが、もしかしたら、今はビシュヌ神の時間、なんていうのもあるのかもしれない。

しかし、そうはいっても、とくに重要な日というのはある。その一つが満月だ。この日ばかりは、インド中のどこかで大きな祭りが行われている。

例えば今日、多分、南インドのティルヴァンナマライのアルナチャラの山に、巨大な炎が燃え上がるはずだ。これは、神話のなかで、ビシュヌ神とブラフマン神がどっちが偉いかで言い争いをしていたところ、突然、シヴァリンガ(男根)が火柱となって天と地へ果てしなく伸びていった、という神話に基づく祭りである。あとは、砂漠のオアシスであるプシュカルという村でラクダ祭りが行われる。最近は少なくなったそうだが、それでも数千匹のラクダと牛が集まるラジャスターン州一の家畜祭りだ。また、ビハール州のソネプールという村でもやはり大規模な家畜祭りが行われる。これは牛中心で派手さはないが、家畜の数はアジア一だという評判だ。

とはいえ、どの祭りでも、現地は大勢の巡礼客でめちゃくちゃになっているはずだから、遠く日本の夜空を見上げながら、異国の祭りを想像するほうが、かえって楽しかったりする。

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(追記)
これを書くためにいろいろ調べてみると、どうもそれぞれの祭りのクライマックスは昨日であったようだ。・・・今日は確かに満月だが、よく分からない。間違っていたら、すみません。

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東京の日常風景

新宿南口には早々とクリスマスのイルミネーションが灯った。1ヶ月前だというのに気の早い話だ。でも、寒い夜空を見上げながら歩いてくると、これもいいものだなあ、と思う。2年前に初めて見たときは違和感があったが、まあ、東京暮らしに少しは慣れたということか。

普段、カメラを持ち歩く習慣がないから写真は撮らなかったが、ちょっと本格的に東京を撮っていこうかな、という気もする。デジタル一眼も春に買ったことだし・・・。

最近、長期に旅行することがなくなって(1ヶ月ぐらいは長期とは言えない)、ものの見え方とかが以前とはだいぶ違ってきた。以前は気付かなかったものに目がいくようになった。何、と言うほどのものではなくて、その辺の犬とか、カラスとか、もちろん人も、みんな、どういう気分で生きているのかな、という風に、考えたりする。

旅行でも、ものは見るけど、見え方は違う。重い機材を背負い、緊張感も強い。撮らなければ、という気負いもある。また、インドだというのもあるだろう。日本とは、すべてにおいて違う国である。

インドと日本では、やはり何もかもが違う。どこが、と思ったとき、あの新宿のイルミネーションが頭に浮かんだ。あれを遠目に見たとき、それにしても静かだな、と思った。インドでもイルミネーションはあるが、あんな雰囲気にはなりそうもない。それに透明感、これもインドにはまずない世界、・・・正直言って、最初はあの透明感が少し怖いと思ったほどだ。

そんな日本の日常風景も、少し見慣れるとまたいいものだ。悲しくなるほど寂しい風景も多いが、それも含めて、いいなあ、と街中で見惚れることも多い。所詮、旅行者気分かも知れないが、インドとはまたぜんぜん違った日本という国、そして、その首都東京にいることを生かす道はないかとぼんやり考えている。今まで撮りためた写真もあるしね・・・。

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ブログを始めました

ホームページchaichaiのアップから約2ヶ月、ついにブログを始めることにしました。chaichaiは、インド、ネパールなど、南アジアの話題に限定したホームページですが、ブログではあまりそれにこだわらず、日常気付いたことなども書いていくつもりです。

それにしても、3年前までメールアドレスさえ持っていなかった人間が、今は一日中、インターネット、インターネット!自分でも不思議な気分ですね。じつはブログという言葉も、つい数ヶ月前にはじめて知ったんです。それが今は、ブログで何が出来るだろう?と、日々自問自答する毎日、・・・人間、変われば変わるものです。

ただ、それでもやはり、というのはあります。ふと思い出すのは、あの懐かしい旅のことです。インターネットという言葉もなかった時代、インドの海辺でぼんやりしていたある一日・・・、それに、夢中でネパールの山村を巡っていた旅・・・、そして、この手紙、無事に日本に着くのかなあ、と考えながらインドの古臭い郵便局に歩いていった田舎道・・・、そんな日々のことです。

多分、インターネットと旅の相性は結構複雑ですが、そんなことも含めていろいろ書いていければ、と考えています。ま、のんびりやります。では、これからもよろしくお願いします。


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